2013年3月2日土曜日

渡辺清次郎と豊公記念碑

1867年開陽丸(2,800トン)は幕府の軍艦として建造され、当時、我が国第一の

新鋭艦であった。艦長は榎本釜次郎であり本島泊の
 
渡辺清次郎も乗り込んでいた。

鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、密かに大坂城を出て開陽丸にて江戸へ

脱出したが、この時開陽丸に乗り移るボートの舵手を清次郎が勤めた。

のちに榎本武揚は咸臨丸(途中で離脱)など8隻を率いて函館へと進み、北海道での

独立国をめざした。渡辺清次郎も榎本の元で働いたが五稜郭は落城、新政府に帰順

した。明治になり清次郎はその力量を買われて明治4年、海軍兵学寮(まもなく海軍兵学校)
 
の教官となり明治14年まで勤め、多くの海軍の人材を育てた。山本権兵衛、斉藤實も

その中におり海軍大将から総理大臣にもなった人物である。まさに日本海軍の育ての

である。

本島泊において、昭和3年豊臣秀吉の恩顧と遺徳を偲んで、豊公記念碑を建てること

になり、その碑文の書を海軍大将斉藤實にお願いすることになったのも泊浦出身の

渡辺清次郎の紹介状によるものであったという。なお、裏面には秀吉の朱印状が

刻まれている。



                         渡辺清次郎





木烏神社境内にある

                           豊公記念碑








0 件のコメント:

コメントを投稿