島歩き 瀬戸内海備讃瀬戸の中心 塩飽大工の里 咸臨丸そして人名の島, 遊歩百選に選ばれた景観と歴史・文化の島を歩いてみよう 安徳天皇の伝説もあります。
研修会ではお世話になりました。弘泉寺の位牌は三男の系統ではないでしょうか。 宮本伝太夫道意の跡目は、長男が真木又左衛門の跡を継ぎ、次男も入江四郎左衛門の跡を継いだので、結局、三男の宮本半右衛門宗満が相続しました。「塩飽海賊史」 伝太夫(道意)→半右衛門(宗満)→伝左衛門(清伝)→伝左衛門(幸閑)→伝太夫(幸年・浄専)→伝太夫(浄言)→伝太夫(宗義)→伝太夫(宥照)→伝太夫(良善)→伝太夫(幸通)<瀬居島事件>「塩飽史」 寛政4年(1792)7月12日、宮本家何代目か不明であるが当時の伝太夫は250年続いた年寄職を追放され、家を潰し失意のどん底にあった。(寛政の島治大改革) この年瀬居島では麦が不作で古来年貢を納めてきた島開発の発起人宮本伝太夫に交渉を持ち掛けようとしたが、伝え聞いた伝太夫が激怒し瀬居島に乗り込み交渉の場で興奮の余り抜刀して住民2名に重傷を負わせた。この事を大坂奉行所に訴えられ、結果、和議となり吉祥院が仲裁に入り、島民に有利な年貢の改善となった。 この時の伝太夫が幸通だったのではないでしょうか。
鐡五郎さんのお話とは直接関係していないは思いますが誰かお教えいただきたくお願い申し上げます。宮本家の追放後も塩飽に残っている親族はいらっしゃるのでしょうか。私の手元には天保11年宮本善右衛門正実の81歳6代目の肖像画(画家は備中玉島の岡本綾江で讃岐高松の黒田綾山の弟子)と家訓が書かれた掛軸が手元にあります。この宮本善右衛門が塩飽の人も分かりません。香川県史の近世2には小坂騒動で年寄下役の宮本善右衛門が仲裁のため寺の住僧を派遣したとあります。この宮本善右衛門正質なる人物は年寄職であった一族の人でしょうか。この宮本善右衛門6代目は違うかも知れませんが、何卒御教示ください。滝澤より、
研修会ではお世話になりました。弘泉寺の位牌は三男の系統ではないでしょうか。
返信削除宮本伝太夫道意の跡目は、長男が真木又左衛門の跡を継ぎ、次男も入江四郎左衛門の跡を継いだので、結局、三男の宮本半右衛門宗満が相続しました。「塩飽海賊史」
伝太夫(道意)→半右衛門(宗満)→伝左衛門(清伝)→伝左衛門(幸閑)→伝太夫(幸年・浄専)→伝太夫(浄言)→伝太夫(宗義)→伝太夫(宥照)→伝太夫(良善)→伝太夫(幸通)
<瀬居島事件>「塩飽史」
寛政4年(1792)7月12日、宮本家何代目か不明であるが当時の伝太夫は250年続いた年寄職を追放され、家を潰し失意のどん底にあった。(寛政の島治大改革)
この年瀬居島では麦が不作で古来年貢を納めてきた島開発の発起人宮本伝太夫に交渉を持ち掛けようとしたが、伝え聞いた伝太夫が激怒し瀬居島に乗り込み交渉の場で興奮の余り抜刀して住民2名に重傷を負わせた。この事を大坂奉行所に訴えられ、結果、和議となり吉祥院が仲裁に入り、島民に有利な年貢の改善となった。
この時の伝太夫が幸通だったのではないでしょうか。
鐡五郎さんのお話とは直接関係していないは思いますが誰かお教えいただきたくお願い申し上げます。
返信削除宮本家の追放後も塩飽に残っている親族はいらっしゃるのでしょうか。
私の手元には天保11年宮本善右衛門正実の81歳6代目の肖像画(画家は備中玉島の岡本綾江で讃岐高松の黒田綾山の弟子)と家訓が書かれた掛軸が手元にあります。この宮本善右衛門が塩飽の人も分かりません。香川県史の近世2には小坂騒動で年寄下役の宮本善右衛門が仲裁のため寺の住僧を派遣したとあります。この宮本善右衛門正質なる人物は年寄職であった一族の人でしょうか。
この宮本善右衛門6代目は違うかも知れませんが、何卒御教示ください。滝澤より
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